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2010年4月 7日 (水)

五木寛之氏のトークライブに出席

Itsuki 4/6(火)、虎ノ門ニッショーホールにて作家・五木寛之さんのトークライブがありました。昨年の1/24に拝聴した故・松原泰道先生との対談出版記念講演「今をどう生きるのか」も大変心にしみましたので、今回も楽しみに出席しました。(by Q) そして、その内容をちょっと書きとどめてみました。

やっぱり今回もダンディーでしたね。年を重ねるごとに彼のダンディズムのオーラというものは広がりつつも、かつニュートラルになっているように感じさせてくれます。格好良すぎです。この日は、「徹子の部屋」の収録のまま、会場に来られたんですって。オンエアが楽しみです。

「春愁」・・・今回はこの深い言葉を頂きました。寂しいけれど、どこか落ち着いているような思い。春に愁いを感じる日本人の素晴らしい感性です。

五木さんは桜満開の今にぴったりのお話をして下さいました。

 「桜を見る時というのは、どうもその向こうの空はどんよりしている時が多いようです。また、意外と昼間よりも夜に見上げることも多いようでもあります。そして、もう一つ思うのは、桜を見ている時の人々の表情というのは、どこか『沈鬱』に見えてしまう・・・。」

というお話から入ったのですが、やはり戦中・戦後・朝鮮からの引き揚げの中を多感な少年期で過ごした彼を含めた日本人だからこその感情なのでしょう。桜・・軍歌・・・「花と散る」・・・戦死・・・そんな連想は日本人にからは拭い去れないのかもしれません自分の記憶からイレーズしたくてもできないものがある。

桜は「散る」ということが前提となって、それを人々は美しいと思う。いずれ桜は散るんだ、いずれどころか、間もなく・・・という無常観とも言える感慨。彼は、惜しくも先日逝去された立松和平さんとは親交があったので、立松氏のこんな歌も紹介して下さいました。

命あり、今日の桜も身にしみて (立松和平)

今一度、愁いをもって散りゆく桜を見てみたいと思います。

春愁や老医に患者の無き日あり
この句は読む人それぞれが異なったとらえ方ができるのでしょうが、とても静まった寂しさと充足感の混在したような愁いが感じられます。

人生の「青春」の時代も、やはり愁いや鬱のこもった時なのでしょう。「青春」「朱夏」「白秋」「玄冬」のように、ギラギラとと灼熱する「朱夏」に及ぶ前にある「青春」とは、どこか鬱とした時期なのでしょうか。

今、「鬱」が社会問題となっています。今まさに「鬱の時代」ですが、しかし「鬱を生きる」時代と捉えなければいけない。それよりも、年間3万数千人という、先進国でトップの自殺者数は異常です。アメリカではベトナム戦争という悲惨な過去があり、それにより6万人以上もの尊い命が奪われたのですが、そのベトナム戦争期10数年で奪われた命と同じ数を、日本では僅か2年で自殺により至らしめているとは、凄惨な状態です。

仏教でも「人生は苦である」という根幹から莫大な教えがあるわけで、人生とは嘘偽り無く「苦しい」ものでしょうが、五木氏は最後にこんな清々しいお話で締めて下さいました。

「自分の命が受胎する時に卵子と合わさる精子は約5億のうちのたった一つ。残りの4億9千9・・・の死を乗り越えて命を得た自分というものは、その時点で尊いものです。そして、人間が赤ちゃんとしてこの世に生まれ出る時に泣くのは、苦しい現世にほっぽり出され、さらにはすぐさま「死」へのカウントダウンが始まるから泣いているという考えもありますが、そうだとしても、泣きながらこの世に生まれてきて、生老病死の苦を今日まで生き抜いてきただけ、ただそれだけでも生きている価値があるのではないでしょうか。その自分を認めてやろうではないのでしょうか。」


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